論理学と自然言語 

目次


第1節 論証を装った文章 − 受身形を使う

第2節 難解な文の危険

第3節 論理的におかしな文章

第4節 矛盾の後ろにあるもの

第5節 前提をうまく利用した言い抜け


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  第3章 正しからざる文

第1節 論証を装った文章 − 受身形を使う

 次の文章は戦時中、アッツ島で日本軍が全滅(玉砕)したときの朝日新聞の論説の一節です。
「(米英兵の)彼等は決して捕虜を不名誉とせず、むしろ定められた義務を果たした勇士としてこれを英雄視する。」...(1)
「忠誠とか犠牲とか、崇高なる精神を表現する言葉はむろん米英にもあるが、それが行為となると彼等には踏み越え難き一定の限度のあることが知られる」...(2)
 そして文章は続けて日本人の玉砕精神が彼等よりいかに優れているかを説くのです。
 なぜこの例を出すかというと、戦中は国民の大多数がこの文章が正しいと考えていたと思われるのに、戦後はかなり多くの国民が間違った文章だと感じている例だからです。
 すなわち、論理的文章は、第2章第1節で述べたように、時代が異なっても真である文章でなければいけないからです。
 まず(1)は
 「彼等は決して捕虜を不名誉としない」
 「彼等は定められた義務を果たした勇士として捕虜を英雄視する」
という2つの文の連言でなっています(「むしろ」、という強調の言葉で結ばれていますが)。これらは事実(と思われること)を述べています。この言葉は必要なら傍証を示せるでしょうから、真なる文といっていいでしょう。
 次に(2)は
 「忠誠とか犠牲とか、崇高なる精神を表現する言葉はむろん米英にもある」 ...(3)
 「忠誠とか犠牲とかが行為となると彼等には踏み越え難き一定の限度のあることが知られる」...(4)
という2文(3)、(4)の連言になっています。(3)も事実を表す言葉であり、この証明は容易でしょう。
 (4)は問題の多い文ですが、これこそが筆者の言いたいことなのです。
 まず「知られる」というのは誰に知られているのか? 欧米の人達がそんなことを知っているわけがありません。忠誠や犠牲を行為で表すのに日本人は玉砕をもってするから、欧米人より日本人は優れている、ということを論証したいわけですので、日本人だけの間で知られている、というのでは論証になりません。
 「知られる」という受身形を使ったのには訳がります。主語を明らかにしなくていいからです。「あなたがしていることは笑われている」「だからそんなことはやめた方がよい」というように使います。、
 また知られているかどうかは措いておくとして、「彼等の犠牲には一定の限度がある」ということもあいまいな内容です。欧米にもアウシュビッツ収容所でひとりの男性の身代わりを自ら申し出たコルベ神父のように、自らの命を投げ出して他人を助けた人も少なからずいます。しかしそれは一部の人であって、日本人は全員がそうだ、と言いたいのでしょう。
 しかし、日本の歴史にそんな日本人全員が自分の命を投げ出したという事実はそのときは無かったから、日本人には「犠牲に一定の限度」が無い、というのは怪しい事実です。
 こう書くと、「日本人は1億玉砕をしようとしたのではないか」という反論があるかもしれませんが(国民全部が死んでしまったら、誰のための犠牲なんだろう?)、それはこのような似非論証によって朝日新聞などのマスコミにあおられた結果である、ともいえます。
 つまり筆者の、そのときは実現していない願望としての結論が、論証の前提の中に紛れているのです。要するにこのときの朝日新聞の文は、論証の装いをとりながら、単に国民を自滅の方向に煽っているだけ、といえます。